HISAKOブログ

「死」から想いを馳せる「生きる意味」

 

inochi 1 - 「死」から想いを馳せる「生きる意味」

HISAKOさんへ

今年の2月、次女を出産しました。
4月には長女が小学1年生になりました。
7月、主人に癌が見つかりました。
そして先日、
主人が桜を見る事はないだろうと宣告されました。

これからのことを思うと
不安と恐怖と分からない事でいっぱいです。

主人の事ももちろんですが、子供達。
特に長女です。
私でさえまだ経験のない別れを迎えるかもしれない彼女に
どう向き合ってあげられるでしょう。

伝えないといけない事、
伝えてあげたい事はたくさんあるはずなのに
言葉が見つかりません。

HISAKOさん、命って、生きるって何でしょう?
死ぬって何でしょう?

いつか娘達が
HISAKOさんの「いのちの授業」を受けられるといいなと思います。

↓↓↓

パパとの別離の宣告をされたママの気持ち。

辛いと思います。
苦しいと思います。

いえ、そんな単純な言葉じゃ表現できませんね。
次々に溢れてくる想いを抱え、
日々を懸命にお過ごしだとお察しします。

気の利いた言葉をかけてあげられない自分が
本当にもどかしいですが、

長女ちゃん、そしてパパとママが
強くたくましく生きていけるように・・・

「死ぬこと」を。
「生きること」を。
「いのち」を。

わたしなりに考えてみました。

自分や家族の残された時間や「死」について
意識しなくても元気に生きているときには
「人はいつか死ぬんだ」
という漠然としたイメージだけだと思います。

大人は、「人は誰でも死ぬ」ということを知っていますが
その知識を自分自身の関連事として
認識できている人は少ないと思います。

「いのち」は、
自然界の「生」と「死」の循環によって成り立っています。

「生」が、「死」の意味を創り、
「死」が、「生」の意味を創っています。

この2つのどちらが欠けても
生きることの意味は消えてしまうので
「いのち」の大切さを語ろうと思ったら、
「いのち」に限りがあることや
「死」について語らざるを得ません。

誕生、消えゆく「いのち」
障害や疾病とともに、
一生懸命に生きている多様な「いのち」

わたしは助産師という職業柄、
これまで大勢の「いのち」に関わってきました。

阪神大震災直後、
ガレキだらけのゴーストタウンと化した
神戸の病院に勤務し、
家を失い、家族を失った人たちにたくさん出会いました。

11回の出産では、
自分の「いのち」よりも大切な「いのち」がある
ということを知りました。

もしも自然災害が起きて、
子どもたちを守らなければならなくなったら
わたしはこの子たち全員を守れるんだろうか・・・
考えると眠れなくなったことがあります。

わが子の「生死」に直面し
膝が崩れ落ちるような恐怖を味わった経験があります。
病院に向かう救急車の中で、
明日生きているかどうかだってわからないことを
真剣に考えました。
震えが止まりませんでした。

4回の流産、
産むか産まないか迷いに迷った妊娠、
現在進行形の21年間の子育てでは
いろんなことがありました。

そして今現在も
ばぶばぶで毎日、多様な親子に触れ合う中で
わたしの「死」についての想いは少しずつ変化しながら
形成されつつあります。

人の「死」は本当に突然やってきます。
それは決して他人事ではありません。
助産師のわたしにとって「死」は、
おそらく一般のママたちより現実味を帯びて
いつも隣り合わせの存在です。

いつか必ず「死ぬ」
だからこそ、
今日を「どう生きるか」なのです。

一度死んでもまた生き返る
作られたゲームやネットの世界に「本物の死」はありません。
「死」がないということは、「生」もありません。
「死」があるのは現実の世界だけです。

その中でも、山や川や海や野原、
自然界にはたくさんの「生」と「死」が溢れています。

春になると青葉が芽吹き、草花が目覚めます。
虫も動物も活発に動き始め、
あっちこっちに、新しい「いのち」が誕生します。

いきものはいきものを食べています。
人間も同じです。
「生」と「死」の循環によって成り立っている世界・・・
それが自然界なんですよね。

外で元気に遊べば
つかまえた虫が死んでしまうことも、
摘んできた草花が枯れてしまうことも、
すべてがいのちの学習です。

虫も植物も動物も、死ぬと土に還ります。
土は「死」によって作られていき、
新たに生まれてくる「いのち」を育みます。

講演会・セミナーでは
「子どもはとにかく自然の中で遊ばせよう」
とママたちに働きかけます。

小学校3〜4年生までの子どもには
それがもっとも無理なくスムーズに
心にストンと落ちる「生」と「死」の学びの場になるから!

「死ぬ」とはどういうことか。
「生きている」とはどういうことか。

言葉がけによる知識の蓄積ではなく、
その本質を子どもたちに心で感じてもらうには
日々の暮らしの中で「死」に触れる体験を
積極的に行うべきだと思っています。

今、身近な人の「死」に直面するかもしれない子も
そうではない子も

外に出ましょう!

太陽の光を浴び、風を感じ、
土に触れ、虫や植物、石ころや小枝で
たくさん遊びましょう!

小中高校で行う『いのちの授業』では
「生」と「死」、両方の側面から「いのち」のことを話します。

さまざまな価値観があるとは思いますが、
日本の子どもたちが
世界と比べてダントツに自尊感情が低いのは
個性を尊重せず、没個性を善とする
右にならえの大人社会に問題があるからだと
わたしは思っています。

自分とは違う価値観、
自分とは違う個性、
あらゆる違いを認め合うことが、「性」の尊重、
「いのち」を大切にすることにつながるのに、

大人は子どもに夢や希望、
偽善のお調子ごとばかりを語ります。
醜いものや向き合いたくないものには目を背け
社会の負の側面を伝えようとしません。

日本は、「死」と「性」を語ることはタブーです。
キラキラの「生」は語るくせに
「性」って言われると、緊張してしまい、
「死」って言われると、身構えてしまうのは
なぜなのでしょう。

「性」や「死」について考えないようにすることは、
「生きること」や「いのち」の大切さを
考えないようにすることと同じなのに・・・。

「生」と「性」と「死」は
セットにして考えることが必須です。

どの発達段階においても
「いのち」の大切さを伝えるのに
単なるきれいごとのお説教だけで終わってはなりません。

子どもは形式的な美辞麗句なんて聞きたくはないはず。
ポジティブもネガティブも両方含んだ
「生」と「性」と「死」が知りたいのです。
大人と一緒に「いのち」の真実について考えたいのです。
子どもは思っているよりずっと賢いですよ!

子どもがどのぐらい「死」について理解しているかは
発達段階によって異なります。

3歳ぐらいまでの子どもは、
「すべてのものにいのちがある」
と感じています。

だんだん
「動くものにいのちがある」
と考えられるようになり、

やがて
「自分の力で動くもの(生物)にいのちがある」
とわかるようになっていきます。

3歳のととちゃんは
「生きてる」「死んだ」という言葉は使いますが
一時的にどこかに行ってしまったけどそのうち戻ってくる、
眠っているだけだからそのうち起きる、
などの区別がいまひとつ理解できていません。

正確に「死」を理解しているわけではないので
だんこむしを両手でブチっと引きちぎっておいて

笑顔満面で

「あ~あ~かわいそうやなぁ~」と(;_;)

わたしは

「ちぎれちゃったなぁ。
もう動かへんなぁ。かわいそうやなぁ。
お砂かけてあげよか?」

とだけ言いました。

自然界での遊びを通して
3歳児にも、「いのち」のはかなさは伝えます。
でもだんごむしをちぎって遊ぶこと自体は否定しません。
こういう一見残酷な遊びを繰り返しながら、
子どもは「生」と「死」
「いのち」を学んでいくのだから。

4歳以上になると
なんとなく「死」を理解しますが、
あっちの世界に会いに行くけど、
また戻ってこられると思っていたりします。

小学校低学年ぐらいになると
「死んだら生き返らない」とわかるようになります。
でもまだ、すべての生きものが必ず「死ぬ」ことは理解できず
「死」は特別な病気や事故によって起こると考えたり、
自分には関係ないことと感じる場合もあるようです。

高学年になると
「死は誰にも訪れる、決して避けられないもの」
と受け止められる段階に達します。

そして中学生以上でようやく
「死は永久に生命活動を失うこと」
大人と同じレベルで理解できるようになっていきます。

小児科病棟で勤務していたときに、
わが子の「死」に呆然とし、
不安と恐怖から自分を守るために
感情を抑圧し、まるで何事もなかったかのように
振る舞うママに出会いました。

ママとして至らなかったから、
自分のせいで子どもが亡くなったのだと
自らを責めてしまうママもおられました。

どうして自分を残して死んでしまったのかと
怒りと悲しみで心がかき乱され
傷つき苦しむママの姿も見ました。

身近な人の「死」に直面することは、
大人にとっても子どもにとっても辛く悲しいものです。
気持ちを表現する能力が低い子どもは
感情をありのままに出すことは
大人よりずっと難しい作業です。

何もなかったかのように振る舞う子、
不自然なまでに明るく振る舞う子、
泣き崩れる子、
怒りから攻撃的になる子、

表現方法はそれぞれ違うけれど
残された人がそこから必ず学ぶことがあります。

それこそが「生きる」ということ。

かわいそうだから、と大人の一方的な考えで
子どもを遠ざけてしまうと
かえって子どもの心に傷を残します。
「死」について話してはいけないと思っている子は
「死」への不安を深めていきます。

現実をごまかさず、
子どもとともに「死」を体験し、
悲しみを共有していくことで
子どもたちは生きていることの大切さを実感として
感じ取り、「死」への不安や恐れを和らげていくことでしょう。

朝起きて、ごはんを食べて、遊んだり勉強したり、
喧嘩したり、仲直りしたり、笑ったり怒ったり
当たり前のように過ごしている時間が
こんなにも貴重であること。

自分の「いのち」があること、
目の前に大切な人がいること。
「生きていること」は、それだけで幸せなこと。

たくさんの「生きる意味」に気づくはず。

「生」と「死」、両方合わせて「いのち」です。
生まれなきゃ死なないし、
「死」という区切りがなければ
今を大切に生きるという概念もありません。

そして、そのいのちをつなぐのが「性」ですね。

「ママっていつか死ぬの?」

先日、5歳の娘に聞かれました。

子どもは、
答えを聞く用意ができていない事柄を
尋ねることはありません。
望んでいるのは真実を誠実に説明してもらうことだけです。

いつかパパママにも
その日が訪れること・・・
わたしは事実は隠さず、簡単な言葉を使ってはっきりと
明るく元気に伝えます。

わたしが娘に伝えたかったのは
恐怖や不安をあおるだけの「死」ではなく
そこから想いを馳せる「生きる意味」です。

「そうやな、いつか死ぬねんで。
でも今のところ予定はないし、
ママは自分のいのちを大事にしてるから
大丈夫やで!」

わたしは笑って娘を抱きしめました。

メールをくださったママ
家族4人の大切な毎日を悔いなく過ごせること
大きな難題を乗り越えられることを
心から願っています。

 

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